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言葉は不思議ですNo3 [雑感]

人間の大きな特徴
それは様々な感覚器から受容する
次元も違えば…全てが違う情報が
一箇所に集められ
しかもその情報同士が交差する。
例えば目で視覚の情報が入ってくるのに
一部は交差して、脳の後ろの方の視覚野で処理される。
なんでそんな遠くまで持ってくの!って言う(笑)
これは発生の問題ですが。

元々脳を設計するのだとすれば
こんな今の脳みたいなめんどい
いい加減、不都合な作りには
しないんです。
でも、自然にどんどん発達して
連絡がつかなくていい場所まで連絡がつくように
なった。

視覚でいうと
その前から後ろに伝わる信号と
簡単に言うと横切るような信号
聴覚から入ってくる情報とか
諸々が影響し合わないわけないですよね。
だってもし独立だとしたら
人間の脳波から
視覚情報だけ取り出せる筈だから。
人間の脳波自体が、
まず情報がごちゃ混ぜになってることの証明みたいなものなので。

これに脳は解釈を与えてるわけです。
自分に入ってきてる
情報の辻褄を合わせるために
その解釈の形が意識であり言葉。
ですから、人それぞれまず意識が違います。
言葉も違う。
おそらく私の中のトマトと読者の方のトマトは違う。
一般の生活でそれは顕在化しないだけ。
なぜ違うのか
それは感覚器の能力に個人差があるから
そして処理する脳にも個人差があるから
当然違う

話が逸れますが
私は授業で生徒の脳が
どう処理してるかを見てるわけです。
無論、上辺の言葉だけではないので
答えが間違ってるとか
あってるかとか
そういう次元の問題ではないですが。
「考え方をみる」って、どういうこと?
という質問が時々きますが
認識の方法には
いくつかパターンとまでは言わないですが
方法があって
それが数学なら数学を解けるパターンになってるか?
ということです。

戻らなきゃ!
(笑)
脳の解釈によっては
私みたいに
3人の幻覚が見えてたりした時代が
あってもなんら不思議ではない
それは脳の病気ではない。
個性的な解釈なんです(笑)
常軌を逸した考え方なので、常軌を逸したものが見えていて
むしろ当然じゃないか…という
こじつけ(笑)

そもそも与えてる情報が
全然違うのにそれを脳に
統合しろと言うのが
無茶振りなんです、
人格ということに関わってきますが。
ですから人間の精神は壊れやすい、脆い。
錯覚を起こしやすい。
おかしな考え方が、始まってしまうと
最終的には死に至る。
自己という、概念の崩壊を望むわけです。

ですから、情報過多の時代って
本当に脳は大変
病んで当然。
もう統合が保てなくなる。
だから
「知らない」ということも大切。
ちょっと疲れてると思ったら
情報を遮断するのも大事。

私はそれで最近
テレビもニュースも見てないです。
知れば考えるので(そういう病気なので)
今は色々な生徒のことを考えなきゃいけない時期で
これ以上は脳の限界だと思うから。

よく考えたくないから云々と
普段生活の中で私がいうのは
そういうことです。
知るのが怖いわけではなくて
なんでも考えたくなる
面倒な人間なんです、私
それを保つ方法が情報遮断。

感覚が過敏な人も大変。
しょっちゅう頭痛が起きる
頭痛とは限らないですが
一つの例として。
そんな頻繁に起こらないはずの頭痛が
脳の勘違いで起こる。
脳に教えてあげないと、
その結論
間違えだよって。
それを治さないと、
薬を飲んで信号を遮断し続けても
治らないし、副作用で身体の胃やら何やら他が
おかしくなる。

自分なのか、そうでないのかも
人間が勝手に作りあげた意識。
自分と外界の境界は
はっきりしてる気がするかも知れないですが
そんなことはないです。

幻肢痛ってありますよね。
交通事故で
右腕がないのに
右腕の指先が痛むとか。
それは鏡で教えてあげないと
一生懸命。もう手はないんだよって。

意識が自分の範囲を超えることもあります。
車の運転の上手い人は
車がもう自分の身体になってる
ぶつかったら、あいた!ってなる。身体のように
本当に。
また、意識が自分よりも小さくなることもある
精神が弱くなっていたり、又は
薬物で起こりやすいですが。
他の人の声が聞こえてくる幻聴と言うのは
まさにその典型例です。
自分で自分の中で喋ってることってありますよね?
心の声。
「なんだ?このおじさん」とか
「今日って寒いよなあ」とか無意識に心で喋ること。

それが普段は
自分の声だとわかるんですが
意識が自分より小さくなると
誰か知らない、外部の声に聞こえます。
人間の脳は分からないものに合理性を与える
宗教なら「神のお告げ」になるんです。
オウム真理教がやってましたよね
薬物で、声を聞かせる。
そういう原理です。
でも、それは自分の普段の心の声。

人間は、意識が外部と決めたら途端に拒否反応を示します。
口の唾液はいやというほど飲んでるのに
コップに唾液を出して溜めて
「外部」にした瞬間飲めたもんじゃない。
勿論、この内部外部を分ける境界は個人差がありますし
個人の状態にもよります。

全ての感覚を遮断した暗室のプールに入る
実験に参加したことがあります。
幻覚を感じたくて。
脳は感覚を遮断されると
入力がなくなって
あれあれ???どうしたんだ???
で解釈に困って
架空の物語を作り出します。
それが幻覚が見られる仕組みです。

様々な不思議体験ができると
教授が言ってたので楽しみに水着持参で
行ったのに…
私は何十分入っても何も見えず
みんな不思議な体験をしたらしいですが( ̄◇ ̄;)
おかしい、君はおかしい人間だと言われました。
期待しすぎてわくわくしすぎましたかねえ(^◇^;)

こういう風に意識というのは
色々なんです。
だから本当は日々
自分も色々です。
癖もあります。
でも最終的には
脳が自分は自分だ
みたいに思わせるのです。

自分に入ってくる情報で
脳が処理して自分を作ってるものだから
感覚に依存するんです。

言葉というのは非常に抽象的なものです。
百聞は一件にしかず
で、具体的にそのものを見せた方が
説明は圧倒的に速いです。
言語というのはコミュニケーションを担ってるようで
実は元々はそうじゃないんじゃないか
というのが私の仮説です。
それは言葉が抽象的すぎるから。
人に説明するために言葉が発達したのだとしたら
あまりにもお粗末だと思うんです。
言った言わないの喧嘩はありますし
言葉による誤解もたくさんあります。

そこで1番最初の言葉は何か?
それが数学だというのが
私の考えです。西洋数学、二項対立です。
脳が作り出した意識、妄想が数学です。
数学は同値であると言うことを大切にします。
必要十分条件、イコール
全ては同値変形でしかないわけです、数学って。
これをなぜ思うかと言うのは
数学と言葉の論理関係って微妙にずれていて
数学の方がより先にできたであろうと言うことが
結構あるからです。
まずものが等しいか等しくないか
これはリンゴかリンゴじゃないか
それには抽象的なリンゴ
つまり言葉がないとできないのです。
でも言葉がある前に
同じか同じじゃないか
又は、数と言う概念が脳の発明
つまり解釈としてできたと思うのです。
例えばリンゴを4人家族分とってくる
と言う時に
自然にどんな形のリンゴがあるか分からないわけです。
でもそれはリンゴだと分かり
家族の数も分からないとだめ。
適当に最初は持ってきたのかも知れない。
でも毒がある食べ物や
美味しいもの、不味いもの色々あって
これがリンゴだという概念ができた。
その概念ができてリンゴと名付けるようになったのだと思います。
人間は発話できる前から群れで行動していたと思います。

長すぎるので、この辺で終わりますが
数学と意識の関係って面白いですし
その論理性のズレに何か新しい科学の萌芽を
感じています。
いつか時間について書きますが
時間も人間の意識にあるもので
その外部にはないと私は思っています。

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