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個人と国家:括りの問題 [雑感]

慶應二年生というハンドルネームの方から
沢山のコメントを頂きました。
受験が迫ってきており、忙しいので
コメントの相手をしている場合でもないのですが
私が答えないと止めないそうなので一応お返事を書きます。

何が「しょーもない」かと言えば
慶應大学とか東京大学などの大きなくくりの言葉で
勝手にあるものを代表して
議論をしてもどうしようもないということがまず第一です。

例えば東京大学と言っても本当に学生はピンキリです。
非常に優秀で立派な方もいれば、犯罪を犯してしまったり
おかしな行動をする人もいます。人それぞれだと思います。
これはどこの大学でも同じです。
日本人、中国人…という「国民」という括りもそうですし
A型B型…という「血液型」という括りもそうです。
その勝手な括りで勝手なイメージを押し付け議論をしても
しょーもないんです。
また
「日本人は奥ゆかしい」
と言ったとします。
それは一つの仮説、個人的な体験をもとにした架空イメージならば構いません。
でもそれを盾に本気の議論をしてはいけません。
それは根拠がないからです。
日本人1億2000万人を全部調べ
奥ゆかしいとは何と比較してどうなのが奥ゆかしいと言うのか?
「日本人は奥ゆかしい」というのは誰も確かめたことのない
一部のサンプルのある一部の人の体験談に過ぎません。
奥ゆかしい日本人というのは架空のイメージの中の個人です。
東大はどうだ、慶應はどうだというのも
その人の東大や慶應のイメージを述べているだけで
何の根拠もありません。
実際、全卒業生を調べたわけでもなく
何となく自分が接した人はそうした人が多かったという印象論です。
この印象論を断言してしまうようなことをするから
そうではない印象論をお持ちの方から反論を受けます。
そして印象論は感情論へと変化し
お互い各大学を代表しているかのような錯覚と共に無益な言い争いが
始まるんです。

自分がその集団の平均である、普通であるなどという保証は何もなく
その平均すらある意図を持って流布されたイメージ
マスコミが広めただけのものなのかも知れません。
勿論、個人の体験として
例えば日本人はこういう人が多い、A型はこういう人が多い
そういう括りでカテゴライズして自分で納得するのは自由です。
しかし、それが一般性を持つかのように錯覚してしまい
それで相手に食ってかかるのはどうかと私は思います。

慶應二年生さんに考えて頂きたいことは
例えば「私が塚地さんに似ている」
という言葉をとっても
慶應二年生さんは私のことを実際は何もご存知ないでしょうし
塚地さんの芸能人としての架空キャラではないパーソナリティも
御存知ないでしょう。私も知りません。
その自分の全く知らないものが「似ている」という発言は
両者を何にでも置き換えられる
つまり意味のない発言なのです。
大学について貴方が書かれていたことも同様です。
またおそらく前述の発言は悪口として書いたのでしょうが
私にとっては光栄な話です。
私は塚地さんほどしっかりと活躍できてはいません。
無論お金も稼げてはおりません。
多くのことに関して塚地さんの方が優れているので
私にとっては光栄なことです。
塚地さんには申し訳ありませんが…

また第二に
例えば「A君は京大生なんだって」
という文章に何か説得力があるでしょうか?
私ならば「A君が道端で転んだ」くらいの
へえ~そうなんだくらいの話です。
京都大学にある権威を想定する、ここにまず大きな間違えがありますし
その権威に属しているから、その人も立派だろうというのは
妄想だと言われるくらいの論理の飛躍です。無意味なんです。
勿論A君の人となりについて良く知っている人で
例えばA君は様々な逆境があったけど、その中で頑張って勉強して
京大に入ったんだって
そういう文脈には共感なり、何なりはできます。
でも「人間って動物なんだって」
と言われても、へえ~
としか思えません。
この話とまったく同じです。
ところがその無意味な発言を元に色々と自論を展開されるので
私にはしょーもない話なんです。

話を少し変えます。
架空概念を架空個人が議論をする。
これは意味論としては無意味なことです。
ただ、無意味であるが故に私たちに不条理な悩みを押しつけてきます。

例えば、戦争責任などがそうです。
これは「国家」という強制力を持った架空概念が私たちを
縛り付けてきます。
日本は第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争という三つの戦争を
同時にやってきましたが
日本はこの中で加害者であり、被害者であるという
非常に複雑な立ち位置です。
自分のひいおじいちゃんが原爆や戦争で殺されてアメリカ人が憎いという人もいれば
自分のひいおじいちゃんが戦争で中国人やアメリカ人を沢山殺してしまって恥ずかしい
という人もいます。
その狭間で現代の日本人は悩んでいます。
あの戦争を総括しなかったから、未だに問題は続いているという人もいます。
しかし、この問題は無意味なので永遠に解決しません。
戦争と言うのは国民の総意で行っているわけではないからです。
大半の国民は戦争なんか行きたくないですし、
平穏で普通の暮らしを妨害されたくありません。
そこで何でアメリカはイラクを侵攻し、日本は中国を侵攻したりしたのでしょうか?
その答えは簡単です。
国家の支配者、一部の権力を持った人たちがやりたいからやったんです。
国民はいつもそれに巻き込まれるだけです。
戦争に行くことを拒めば、牢屋にいれられるか殺されます。
法律という、国家の暴力を保証する恐ろしいものを拠り所に
国家は個人に戦争に行くこと、他の国の人を殺すことを強制するわけです。
その国家の強制のもとで戦争が行われていたことを忘れてはなりません。
国家は狡猾で国民を戦争に駆り立てるような洗脳をしてきます。
大量破壊兵器があるだのないだの、このままでは平和な生活が脅かされるだの、です。
マスコミも散々利用されます。あの朝日新聞ですら、国威発揚をしてたわけです。
国の支配者の人が国民をコマのように使って一つの国取りゲームをしたい
そのための愛国教育もなされます。
徴兵制も実務的な面もありますが精神的作用として
戦争へ向かわせる精神的なハードルを下げています。
いざとなったら国の為に死ぬことが美学だ、そう洗脳しておけば
これほど使い勝手のいいコマはないわけです。
そしてある日、支配者が「よし、~に攻め込め」と命令を下すわけです。
そこで国民はやりたくもない戦争に意識的、無意識的に巻き込まれます。
殺したくもない相手の兵士や市民を殺さなければなりません。
戦後、そのことで戦争に行った方は一生苦しみます。
何故自分は罪のない普通の人を殺してしまったか…その葛藤に終わりはありません。
国家は個人個人に自分のやった責任を分配するシステムでもあるわけです。
ですから
現在の私たちが日本人だというだけで戦争の被害者気分や加害者気分を味わって
苦しむことは本当に無意味なことなのです。
国の支配者が決めた戦争に巻き込まれた人が大半なわけですから。
ですから以前からブログで書いてきましたが
戦争はやりたい人がどこかの無人島でお互い気の済むまで殺し合えばいいんです。
ブッシュもオバマも、もし自分が最前線で戦う兵士にならなければならないのなら
戦争なんかしません。
国民をコマのように使って戦えるからこそ、よし戦争を始めようということになるわけです。
このことからもわかるように
国に大きな権力を与え過ぎると非常に危険です。
国には国民のお金を巻き上げる力(納税)
    国民の命を奪う力(死刑)…様々な力があります。
ここからは非常に難しい問題になります。
こんな短い記事では論じ切れないことがたくさんあります。
そこを考えることは読者の皆さんに託します。
国家権力を強めると国は一つになり安定する。
しかし暴走する可能性があり、その暴走に対して国民は無力である。
国家権力を弱めると国内での争いが続きかねない。
国民の最低限の生活が保証されない。
そもそも私たちに「国家」は必要なのか?
地球というものを一つの国家にして
自分たちは皆コスモポリタンとして生きた方がいいのか?
どういう風にしたら、最大多数の人が幸せな普通の暮らしができるか?
考えることはどんどん増えます。
難しい問題ですが、考えてみる価値は大いにあると思いますし
最終的には自分とは何か?という問題にも取り組まざるを得なくなります。
これは皆さんに宿題として(笑)私の考えをこれ以上書くことは止めます。
ただ考える為のヒントとしては、頭からある一つの考えを
信念のように仮定するのは絶対に止めた方がいいです。

まずは全てを疑うことから始めてみる。
これはデカルトもヒュームも、そしてカントも然りです。

わざと自分が思う方とは逆の立場になって、
どんどん問題点をあげていく
そういう中で思わぬことに気がついたり、
考えが深まるのだと思います。

閑話休題
ある国家の問題をある個人に還元させて考えることは無意味です。
ブッシュがイラク戦争を始め、国際法で禁止されている放射性劣化ウラン弾を使ったことを、
アメリカ国民が罪悪感を感じ悩み続けても仕方ありません。
従軍慰安婦問題もそうです。日本人ならば責任取れよ…と言われることほど
不条理なことはありません。私は戦争に行ってませんし、戦争をしたかったわけでも
従軍慰安婦制度を作ったわけでもありません。ただ偶然日本という「国」に生まれただけなんです。
それを日本人だからという括りの中で、私自身を論じられるのは甚だ迷惑なのであります。
偶然その国に生まれたから、生まれただけで
その人は罪人だと言えるのでしょうか。
国家が犯してきた様々な罪の責任を背負えというのでしょうか。
その枠を取っ払って考えない限り、問題の本質には迫れないと私は思います。

しかし…それと同時にどうしても私個人の感覚として
私は日本人であるということを
否が応なく感じてしまいます。
日本という国への帰属感、愛着感。
これは家族の問題とも類似していますが
切ってもきれない関係
親しみと憎しみ
その対立した不条理と葛藤の中でずっともがいている私がいます。

問題をどのレベルで捉えればいいのか
考えていけばいいいのか
個人と国家の問題は非常に難しいです。






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コメント 1

元カノami

なんでぶっちーの記事を日付が変わると同時にワクワクしながら更新してしまうのか。
それはしょーもない事柄に解釈を加える際に潜んでいるしょーもない他人の思考の傾向を、多かれ少なかれ無意識のうちに踏襲しているしょーもない自分に気づかせてくれることが少なからずあるからなんだぁ☆

☆だ・か・ら☆

※欄は閉鎖しないで欲しいぉ~~( ノД`)…

追伸
そーくらてーすのベンメー、ぶっちーに影響されて購入してみたぉ((o(^∇^)o))
ゆっくり読んでみるぉ\(>_<)/

ではまたねー

by 元カノami (2015-02-20 00:17) 

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