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物語を読む [雑感]

私は未だ無知なる人々を
相手に仕事をしているので
毎年生徒に同じことを言われ
それをカルチャーしていかないと
いけないのです(笑)
楽しいですが。

「この勉強は何に役に立つんですか?」とか
「この勉強は将来の仕事に関係ない」とか
まあ
色々と無知性な質問を受けるのです

もう
そもそもが「文化的な人」としての
生き方が間違えてると
私は思います。

以前
成果主義という文章を書いたと思いますが
全く同じようなことです。

私の文章を長らく読んで頂いてる方は
分かると思いますが
人生なんて
本来なんでもないくだらないものです
生徒に聞かれます
「どうせ死ぬのに生きる価値があるのか?」
知性がないというのは恐ろしい(笑)

そんなもん
私達に与えられた
地球での人間の生命活動
そのうち太陽の膨張と共に、まあ
隕石でも落ちれば明日にでも
な~んにも無かったかのように消え去るのです
すべてが無駄

人生も
同じ
生まれて死ぬ
人それぞれ長さは違えど
結局、生きたって何も残らない
無駄なのです

そんなこと太古の昔から
分かってる
primitiveでnaiveな話です。

もう……なんて言うんでしょう
こういう人々は
本当に知性の欠片もない
人生を無駄にしてるんじゃないか?って
私は思います。

私は常に人生を楽しむには
知性が必要だと言っています
そのために勉強してるのだと

それは
何もないところにどれだけの
物語を読めるか
想像できるか?が知性によるからです
私達は
その知性で文化をつくってきました
「楽しむ」ために

例えば
ここに木材があるとします
この木材からどんな物語を読めるか?は
知性によります

音楽の知識がある人は
バイオリンをつくれるなとか
建築の知識がある人は
家のこういう部分に使えるなとか
……
それはそれは
無数の知識や考えで
このただの木材から
物語を読むことができるのです。

その何通りの物語を読めるか
その人の知性によりますよね
化学的なアプローチもあれば
物理的なアプローチもあれば
芸術的なアプローチもあれば……

そうやって
本来はなにものでもない
木材に
意味を与え、物語を作り
それを享受する
つまりenjoyするのは
人間の知性によるのです。

人生もこれと同じです
みんなまっさらな人生を与えられる
んです。
そこにどういう意味や意義や楽しみを
与えて深いものにしていくか?
それは知性によります
人生を豊潤なものにするために知性があるのです

だからそもそも誰の人生だって
無知性に見たら
私が質問された内容のままです……
木材はただの
木のゴミです

人生には苦しいこと悲しいこと
いろいろ起こります
でも
その出来事に意味を与えて
「感じる」のは自分自身なのです
自分自身の知性によって
いろいろな物語を読むことができます
私は今、無期懲役になっても
ガンで余命半年になっても
人生を楽しむ自信があります(笑)

そもそも
人間がやってきた文化的な活動
全てが、この物語を読むということです

音楽だってそうです
音楽の素養がある人とない人
様々なものに対して
物語を読む能力に当然差がでますよね
普通になってるどこかの音でも
自然の音でも
それを味わうことができる
楽曲を作ったり
いろいろな音を奏でたり
音楽の素養のない人にとっては
ただの音
意味の無い、無駄な(笑)
でもそこに意味を与え、物語を読んだことに
よって
人類は音楽という文化を手に入れたのです。


これは全ての文化がそうです
考古学者、恐竜学者から見れば
ゴビ砂漠は宝物の宝庫
化石を一つ綺麗にするのに
三年、四年とかけて仕事をしてるんです
そこに
壮大なドラマを読んでるのです
知識のない人にな~んも分からない
人から見たら
化石を綺麗に取り出すのに数年
無駄なことですが
その道の楽しみ方を知ってる人には
毎日が過去との対話
ワクワクドキドキの連続です。

以前、NHKの番組で
こういう発掘作業に密着した番組が
あって
発掘にいったけど何も「成果」がない
時がありました、大半はそうなのだそうですが。
番組スタッフは
「せっかく発掘に言って、何も成果なしじゃ
つらいですよね?」と考古学者に聞いたら
考古学者はちょっとキレ気味に
「成果がない?私はこの広大な砂漠を歩いてると
様々な痕跡から、恐竜が歩いていたり、川が流れて
いたり、そういう映像が浮かんでくるので
そこを散策してるだけでも楽しい」云々

これが
正に「文化人」と「無知性人」の
違いです。

私は最近
スポーツをよく見るようになりました
以前はスポーツ観戦はくだらないと
思っていました
スポーツって自分でやれば楽しいけど
人がやってるのを見て何が楽しいの?って
いう
正にスポーツ無知性人でした(笑)

でも
最近はスポーツの中にスポーツ以外のもの
人生や文化や、まあ勿論物理もそうですが
そういうもの「読んで」楽しむ
楽しみ方を覚えたのです。

小学生の頃
ベートーヴェンは大したことないと
思ってました
ベートーヴェンマニアの音楽の先生と
毎日喧嘩してました(笑)
それは
私は音楽の楽理しかしらなかったからです
音楽の理論的に
ベートーヴェンの音楽、どこがレベルが高いの?
楽聖?馬鹿じゃないの??
って、音楽知識しか無い無知性な私は
思っていました。
こいつら、昔からベートーヴェンは凄い
ベートーヴェンは凄いという話に洗脳されてるだけだと
(笑)
でも音楽をenjoyしていくうちに
音楽の楽理だけではない側面をカルチャーされたんです。
そういう知性を身につけた私が
偶然ベートーヴェンの音楽を聴いたら
本当に稲妻が走るような感覚で
今までの自分の愚かさが分かりました(^0^;)
小学校の頃の音楽の先生
本当にごめんなさい、謝りたいです
もう亡くなってるかと思いますが

言語を多言語学んだり
聖書を学んだり
全ての人間の文化活動はそうです

文化は
知性の凝縮したものだからです。
「茶道」だって
無知性人からみれば
ただ黙って茶~飲めやっていう話で
そこに深淵な楽しみ、喜びを
見いだすことができないのです

もう例をあげればキリがないですよね
人類ってどうせ終わるのに
なんでこんなことをしてるのでしょう?
それは
自分たちの生きた人生、人類の伝統、文化を
「楽しむ」ためです
そしてその楽しみは後世の人の
人生を楽しむヒントにもなっているのです。

勉強して色々な学問の「見方」を学ぶのは
お金を稼ぐためでも
役に立つためでもないです
結果そうなることがあるだけで
いかに人生を楽しむか?
そのために私達は
学んで知性を身につけるのです
そうすれば
なんにもないはずの「無駄な」人生を
豊潤な人生に変えられるのです

今日、今から料理をする
これも
何も知性のない人にはただの面倒な
食べるための作業なのかも知れません
ただ
化学や料理の知性がある人には
ちがったものに見えますし
他の知性がある人には
また
ちがったものに見え
何も知らない人よりも楽しめるのです。

テレビゲームをやるにでも
普通に与えられスペックのゲーム以上の
世界を想像しながらやると
楽しいですよね
背景とか諸々を……

小説や映画、全部そうです

自分で日日知性を磨きつつ
様々な知性の遺産と共鳴する
そうやってまた新たな知性が生まれてきます。

勉強するのも過去の文化との知性の
共鳴です。

ですから
私は、未だ無知性な生徒に
雑談をしたり、授業の中で入試問題を解いたり
その中でも
知性を磨く、色々な考え方をしってもらう
この問題にこういう物語を
読んだら(笑)というものを
提供しています。

究極の知性があれば
どんな人生だって
楽しみに溢れたものにできる筈です。

私の人生哲学は
人生を「楽しむ」ということです。
無論快楽を追求することではありません
物語を読む、のです。
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