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数学と科学 [雑感]

数学を学ぶということ
数学はとかく社会の批判の対象になりやすい、
悲しい宿命をもった言語です。
数学のリテラシーを持てば確実に世界は新たな色を帯びて見えるのですが、
それを最初から放棄してしまう人もいます。
今回はそんな悲しい数学とはどのようなものであるか、
またよく言われる批判に対する私なりの弁護を書いてみたいと思います。

数学は非常に有能な言語です。
自然現象などのある性質を描こうとするときに、
数学はその言葉を用意してくれてあります。
そして逆にその数式から新しい概念を想起させられることがあります。
これは他の言語の特徴と同じです。
日本語では表せなかった、
考えもしなかった概念が英語によってもたらされたことと同じように、
数学によって生み出された概念も沢山あります。

数学を学んでいくと最終的には感性の問題になります。
数学が美しいと感じるか、無機的に感じるかは感性のちがいです。
私は多くの数学者や物理学者同様数学は芸術だと思っています。
一本の数式からこれほど様々なものを想像できるものはないとさえ思います。
一本の数式から音楽が流れ、物語が紡がれます。
美しい式を眺めていると時間の経過さえも忘れます。
数学的な感性がない人にとってはただの式の羅列かもしれませんが。
これは数学に限らず、全てに当て嵌まると思います。
道端に咲いている花をみて美しいと感じる人がいたり、
ある絵画をみて様々なストーリーを頭の中で描いたり、
ある音楽にうっとりとしたり…
一つ一つ個個人の感性によります。
よく数学で表されたものは無機的で、
音楽や芸術を聞くと癒されるということを
一般的な真理のように語られる方がいますが、
それは数学的な感性が欠如しているだけだと思います。

また、数学や物理学は客観的な事実しか対象にできない
と批判をされますが、私はそれで十分だと思います。
言語にしたって、絵画にしたって、音楽にしたって、
当然ながら表現の限界というものがあります。
しかし、これを人間の文化全体として捉えると一つ一つが補い合いながら、
うまく成立をしていると思います。
逆に科学が全てのことを記述できないことを嘆く人の中にこそ、
ニュートン以来の近代科学絶対主義は根付いているのだと思います。
現代の科学者はたった一枚の落ち葉でさえ、
どこに落ちるのかを科学で解明することが
不可能であることは当然の素養として知っています。
ですから、科学では科学の対象になりうること
つまり数学の言葉で表現できることをだけを射程にしているのです。

人間はどんなに鍛えても新幹線より速く走れませんし、
鳥のようにそらを自由に飛ぶこともできません。
それと同じように科学では絶対に扱えない対象があるのです。
そんなことは科学者は100年以上前に認識していましたし、
人間の限界も科学によってわかってきました。
タイムマシンはできる訳がなく、
光速を越えた速度で移動することも、
-273.4度以下の温度を作ることも不可能なのです。

このように我々には限界が必ずついてまわります。
科学についても同様です。
科学はある色がある人には赤に見えるか、
とかピンクに見えるかというような
個人的な(主観的な)内容は射程していません。
ですから、数学の式にのらない現象というのは沢山あります。
客観的な事象も大半は数学の式にはのりません。
近似的に表現できるだけです。
だからといって数学が役にたたないわけでは決してありません。
日本語では表現できない内容があるからといって
日本語が役にたたない訳ではないのと同じです。

数学の力がつけば必ず自分の中に新しい物の見方というものが身につきます。
ただ、本当の数学の意味、威力がわかるのは大学くらいになってからで、
そこまで勉強しない人が多いので、数学はとっつきにくいのかも知れません。
私はなるべく授業の中でこの壁を取り払って
数学の素晴らしさを説明しようと日々努力をしています。
多くの人々が少しでも数学を理解し、自由に扱える日が来るのを
祈りながら、毎日指導を続けています。[わーい(嬉しい顔)]
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