SSブログ

物理の解釈問題 [科学ネタ]

物理や数学を研究していると
抽象化はもはや職業病のようなものです。
抽象の仕方によって
その構築される世界はガラリと変わってしまいます。

物理を勉強していくと
ある時から
受け身ではなく主体的に世界を作っていかなければ
ならなくなります。
物理の問題を与えられそれを演習することは
いい表現トレーニングにはなりますが
それだけでは意味がありません。

物理はいつまでたっても
ある意味で仮説です。
物理の理論というのはやがて書き換えられる運命にあります。
それは、新しい発見によることもありますし
解釈が変わることによるものもあります。
(パラダイムシフトによるものです。)

解釈によって世界が変わる
ということは
私が家庭教師として生徒に伝えている
非常に大切なことの一つです。

この解釈の問題について具体的な例をあげておきたい
と思います。

今、私の目の前にグラス[バー]があります。
私はこのグラスは静止していると思います。
でも実際にはグラスも私も西から東へと
地球の自転に合わせてすさまじいスピードで動いています。
その地球も太陽の周りをまわり、太陽も…
というように静止しているものなど厳密には存在しません。
そこで同じ速度で動いているものどうしは相対的に静止していますから
これを「静止」している状態と解釈するようにするわけです。
ところが、このような解釈もおかしなことになることがすぐに分かります。
電車に乗っていて、同じ速度で並走する電車は静止したように見えます。
これは勿論、相対速度が0なので静止していることになるわけですが
静止しているのにどこかの駅には必ず着きます。
これを静止しているというのはちょっと無理があります。
電車は電車に対して静止していますが、駅に対して動いているからです。

それではこのように一つずつ対象物体に対して静止しているという
ことを考えなければならないのでしょうか?

私と誰か一人がいて、私は椅子に座ったままグラスを見て
もう一人は歩きながら机の上のグラスをみます。
私にとってグラスは静止していますが
歩きながら見る人にとってグラスは自分の歩く方向と逆に動いています。
それでも日常的には、私ももう一人もグラスは静止していると
解釈するのではないでしょうか。

そうすると、どうやら物理学者ではない一般の方々の
「静止」というのは地面つまり地球に対して静止していることの
ように思います。
この解釈で丸くおさまるかというと、そうもいきません。
地球には見かけの力が働くからです。

「静止」ということを考えるだけでも様々な解釈が問題になってきます。
これは「静止」の本質を捉えていないのではないのかもしれません。
静止の本質を捉えた解釈というものは
どのようなものなのか?
このような議論は宇宙の始まりの問題
重力の問題等々
物理の様々な問題と置き換えられるものです。
物理ではこのような解釈の問題が非常に難しいです。

そしてこの解釈の難しさというのは
物理に限ったことでもありません。
以前ブログで書いた
「~は存在するか」という話題にもそのまま当て嵌まります。
この命題に対しては
そもそも「存在する」とはどういうことかを
考えてからでないと議論になりません。
勿論、日常生活で議論する場合には
そんなに細かい点から考え出すと
議論すべき話題を議論できなくなってしまいます。
ですから、その場で「存在する」とはどういうことか
お互いの同意を得て決めてしまいます。
便宜的にでも決めなければ先に進めません。
議論が何も始まらないのです。
逆に、このような定義をお互いに決めておかないと
全く議論がかみ合わなくなってしまいます。

実は物理の世界でも同じようなことが行われています。
当面この前提はこの解釈にしておいて…
と決めてしまいます。
決めないと何の研究もスタートしません。

ところが困ったことに(笑)
この前提を大きく崩してしまうような
解釈を発見する天才が数十年か数百年に一度現れます。
そこで前提が変わればまた様々なものが変わります。

物理学は自然の真理を目指して探究していますが
私は物理学が絶対的な真理に到達することはないと思っています。
真理を探究し続けること自体が物理の本質であり
探究が終わればそれはもはや物理学ではないからです。

自分の人生を生きるということも
同じようなものではないか、と思います。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0